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2017/03/19(日)

第2話 新人が紡ぐ、憧れの系譜

新人が紡ぐ、憧れの系譜(1)

 プロ野球選手とは、この人のことだ。
 新人の春季キャンプは慌しい。分刻みで進行する流れを掴むだけでも一苦労の日々で、酒居知史の視線はある人物に釘付けとなった。
 ランニングの驚異的な速さとスタミナ。次の練習場所へ誰よりも素早く向かう姿勢。キャッチボールの身体の使い方から、登板時の準備の仕方まで、独自のスタイルが完璧に確立されている。
 気付けば、涌井秀章の一挙手一投足を目に焼き付けていた。

 自身の練習に追われながら、酒居は5日間の第1クールを終えた。同じ空間にいることはあっても、涌井とまともに会話を交わす機会は殆どなかった。実際は話をするなんて恐れ多かったという気持ちもある。このときはまだ、テレビで観ていた有名選手が近くにいるという感覚だった。

 きっかけは翌日にやってきた。
 キャンプ最初の休日に投手陣の会食があり、未成年を除いた新人選手は、涌井を取り囲むようにして近くの席に座った。
 賑やかな食事が続く最中、涌井から語りかけてきた。
「もっと色々訊いて来ていいよ。周りに訊くことを当たり前にするぐらいじゃないと、なにも分からないから」
 新人だからといって、物怖じや遠慮など必要ない。
 なんでも尋ねて、頼ってこいと言ってくれた。
 自分たち新人のことを見ていてくれていたのだと、初めて知った。
 この言葉を合図に、酒居たちは少しずつ質問を投げかけていく。隣にいる同期も同じだった。佐々木千隼有吉優樹らも、未知の世界に足を踏み入れたことによる不安や困惑を少なからず抱え、プロのレベルの高さを早くも痛感していた。この先に何が待ち受けているのか、不透明なこともたくさんあった。そんな自分たちの目の前に、エースと呼ばれる人がいる。これ以上の絶好機はないとばかりに疑問をぶつけた。数々の実績を積み重ねたプロ野球選手の言葉に、夢は膨らんでいく。熱い気持ちがこみ上げる。これまで胸の内に秘めていた思いは溢れて尽きることがなかったし、涌井も喜んで受け止めていた。
 瞬く間に会食は終了となり、他の選手は宿舎へと帰っていく。
 それでも涌井は席を立たなかった。
 涌井と新人選手だけの時間が、そこから更に2時間ほど続いた。

 当時を回想する酒居の顔には、自然と笑みが零れる。
「本当に嬉しかったですね。あれだけの実績を残している方の言葉は直接心に響きますし、それを背中で語るように練習態度で見せてくれているので、僕もあのような素晴らしい人にならなければいけないなと思います」

 それ以降はすっかりチームに馴染み、有意義な春季キャンプを過ごすことができた。涌井と他愛ない会話をする機会も増え、実戦を迎えてからは投球術の相談に何度も親身になって応えてもらった。
 数字だけでは計り知れない、プロ野球チームの中心にいる選手がどんな人物なのか、酒居は理解できたように思えた。

新人が紡ぐ、憧れの系譜(4)

 先輩が新人に優しく接している、というだけの単純な話ではない。それは重々承知している。聞き逃すまいと耳を傾けてきた涌井の言葉の数々。その根底にあるメッセージをしっかりと受け取った酒居は、ひとりのプロ野球選手として新たな目標を掲げる。

「涌井さんを超えられる選手になること。それが最終的な目標です」

 新人選手にとって初のプロ野球開幕が迫っている。今の実力がどれほど通用するかは未知数だが、その不安さえもまとめて拭い去るように、涌井が先陣を切って開幕戦のマウンドに上がる。チームを背負い、あらゆるプレッシャーに立ち向かう大きな背中に、他の選手は奮い立ち、後に続こうとする。
 その顔ぶれには今年の新人選手もいて、この連鎖が続く限り、マリーンズは強くなっていく。
 そんなことも、涌井は当然のように知っているのかもしれない。